プロフィール
1948年に九州で生まれました。
小さいころからフネに関心があり一番昔で覚えているのは小学校に入る前、船の模型を作ったことです。  
角材を少しとがらせた程度でしたがドキドキしたのをおぼえています。

小学校は四国の数ヶ所を転校しましたが、小学4年生のときに杉板を組み合わせた小船を作り高知県宿毛市片島の港で漕いでいました
このころは造船所通いが放課後の日課でした

このころ堀江健一さんの太平洋横断のニュースがヨットに目覚めるきっかけだったようにおもいます。

中学・高校は高知市内の高校でした。
石原裕次郎の太平洋ひとりぼっちの映画(堀江健一ものがたり)を見たのを覚えています。

そのころ高地市の浦戸湾には一、二隻しかヨットがいませんでした。
ヨット入門書「ヨットのABC」と百科事典を頼りにヨットを設計しました。
ベニヤ4枚で作った12フィートでした。
「初等船舶算法」という本で排水量計算をしました。
今では危ないとの理由で不可能かもしれませんが、学校の工作室を夏休みに使わせてもらえました。丸鋸も自由に使えました!
私の名刺です。
2003年のアメリカズカップが終りニュージーランドからか帰ってきたとき、とりあえず名刺が必要なので作りました。
ディンギーは自作の「ひるね」
モーターボートは50フィートのフィッシングクルーザー
ヨットはニュージーランド、オークランド市港外を走るイギリスチームのアメリカズカップ艇です。
自己紹介です
高知市、浦戸湾で五台山を背景に走る。
ヨットに乗るのは初めてだったのですが、まったく自然にセーリングできました。
マスト,リギン、艤装品などすべて手作りでした
鉄工所に行って切れ端の鉄板にチョークでセンターボードの輪郭を書いてガスで切ってもらったのが一番の思い出です。
横浜の有名ヨット設計者、横山晃先生に手紙を書いてヨット設計者になる方法を尋ねたところ、大学の造船科に入るようにとの返事をいただきました。
横浜国立大学造船科に入学し、早速ご挨拶に伺ったところ、武市・村本さんと知り合い、名艇「シレナ」の見習いクルーになることができました。
多くのレースに出させていただき、常勝艇の楽しさと厳しさを経験することができました。
学生時代から両氏の設計事務所でヨット設計の見習もさせてもらいました。
学生時代、油壷に入りびたりでしたので色々なことに遭遇し、楽しい経験をしました。
この写真は太平洋横断レースのフィニッシュで、即席の通訳をさせてもらったときのものです。
右はフランスの有名シングルハンドセーラー、テルラン氏
大学卒業して武市・村本ヨットデザイナーズに就職しました。
当時はマリン業界が毎年どんどん大きくなっていく時代でした。
幸運にも紹介により、アメリカのニューヨーク郊外、オイスターベイにあるヨット設計会社「チャンス・アンド・カンパニー」に就職することができて三年間アメリカで過ごしました。

ヨット設計の先進国では設計の手順が論理的で、色々なツールもそろっているのに驚きましたが、同時にアメリカ人のチョット強引とも言える割り切り方、推論の進め方、人生の楽しみ方など大変勉強になりました。

ブリトン・チャンスは1970年のアメリカズカップで防衛艇のイントレピッドを改良した実績により1974年のアメリカズカップのための防衛艇候補、「マリナー」を設計しているところでした。

ロングアイランドサウンドでのヨットレース、会社の同僚とのドライブやハイキングが楽しみでした。
ニューヨークヨットクラブ会員艇によるニューヨークヨットクラブクルーズに参加できたのは雑誌でしか見られないアメリカズカップのスキッパーなどの有名人とレースできて感激でした。

アメリカズカップ防衛艇を目指したマリナーは斬新な設計でしたが期待した性能を発揮できませんでした。 最後のチャンスにかけた船体大改造の時には憧れの12Mクラスのラインズを引くこともできました。

アメリカズカップ(1974年)の本戦ではカレイジャスが豪艇サザンクロスをまったく寄せ付けずあっけない結果でした。
3年のアメリカ生活を終え日本に帰国しました。
1978年に日本で開催されたクォータートンカップに挑戦するべくホリデーToo2を設計しました。
成績は後一歩のところで予選を通過することができませんでした。
言い訳と反省ですが、それまでのヨット設計の経験が大型艇ばかりで、少しディンギーの領域を持ったクォータートンを大型艇のように設計した。
平成になって現在のオーナーから質問の電話がきて驚きましたがまだ元気で走っているようでした。少し丈夫に作りすぎたかもしれません。

このころ私はT&Mに勤めていました。
マストやヨット部品などを設計する仕事でした。
このホリデーToo2のマストは設計ばかりでなくマストの製作も溶接などほとんどすべてを経験(練習!)することができました。
このマストつくりの経験が後で日本チャレンジに参加するきっかけになってきます。
1979年、日産自動車マリーン部がヨット事業を始める時に誘われてそれから約10年日産自動車に勤務しました。
渡辺修二さん、金指さん、山下さんなどヨット界の仲間と一緒に大企業で勤務する、貴重な体験でした。
J-24などJボートシリーズやフリーダムシリーズの国産化や輸入、Nissan-30の設計などをしました。
ヨットの設計ばかりでなく、海外との連絡や英文契約書の作成の手伝い、輸入実務の手伝い、J-24の生産準備のための海外研修、世界選手権を蒲郡で開催する準備など、色々なことを経験できました。
同じ設計室で机を並べていたモーターボート設計グループから得られた耳学問も後日大きな財産となりました。
このころから渡辺修二さんの後を受けてORC(国際外洋帆走協会)の年次総会に日本外洋帆走協会から派遣されて参加しました。
1990年、横山一郎さんに誘われて日産自動車を退社し、マリンデザインシステム設立に参加しました。

本格的なヨット設計の会社ですが,私の最初の仕事は50フィートのフィッシングモータークルーザーでした。

一郎さんが設計したマリシテンはハワイのケンウッドカップで個別総合優勝しましたが、このマリシテンのカーボンファイバー製船体の構造検討でカーボンファイバーのすばらしい性能を体験しました。

その後、1992年のアメリカズカップに向けて発足した日本チャレンジでカーボンファイバー製のマスト、ブームやコバルト合金製のリギンを設計する機会を得ました。
ニッポンチャレンジでは、1995年のチャレンジではマスト・リギンばかりでなく、船体、バラスト、舵、フィン、デッキ艤装などAC艇の構造すべてを検討し、設計しました。
このときに三菱レイヨンで新たに開発された船体用の低温硬化型カーボンファイバープリプレグを使用した三菱レイヨンの試作艇の船体構造も設計しました。

2000年のチャレンジでは基本設計はAC技術委員会(東京大学宮田教授)が、構造解析はGHクラフトがを担当し、私は構造,設計、と建造のコーディネータをしました。
建造は既存の造船所ではなく、GHクラフト、ブルーウォーターが中心となりニッポンチャレンジが組織した建造チームが建造しました。

アメリカズカップは大きな仕事でしたが、ずっと連続した仕事ではありません。その間に、セーリングカヌー「アクアミューズ」のFRP構造の検討、組み立て式カヌー(ファルトボート)の設計、
FRP製の救急車の車体(三菱自動車)、
アルミニウム製の階段やバナーポールの構造設計(新幹線西鹿児島駅)などをしました。

2003年のアメリカズカップではイギリスのGBRチャレンジに参加する機会を得ました。
2007年のアメリカズカップではイタリアのマスカルゾーネチームに加わり、スペインのバレンシアに一年間住むことになりました。